耳塚と秀吉
2006年 02月 05日
京都東山、国立博物館近くにある「耳塚(鼻塚)」に立ち寄ってみた。韓国人旅行者たちが、花を捧げ塔の前で手を合わせていた。普段は柵に鍵がかかっていて塔の前まで行くことはできない。僕も機会を利用して中に入ることができた。あらかじめ予約しておくと、管理しているおじさんが開けに来てくれるようだ。代表者らしき人が、ハングルで名簿に名前を書き込むと、それぞれが日本語で「アリガトウゴザイマシター」とお礼を述べながら、慌しく観光バスに乗り込んで出発した。
京都市が設置している表示板には、「この塚は、16世紀末、天下を統一した豊臣秀吉がさらに大陸にも手を伸ばそうとして、朝鮮半島に侵攻したいわゆる文禄・慶長の役(1592~1598年)にかかる遺跡である。秀吉輩下の武将は、古来一般の戦功のしるしである首級のかわりに、朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ、塩漬にして日本に持ち帰った。それらは秀吉の命によりこの地に埋められ、供養の儀がもたれたという。これが伝えられる「耳塚(鼻塚)」のはじまりである」とある。
1992年、京都のタウン誌に、耳塚について寄稿したことがあり、それ以来、ときおり耳塚にご機嫌伺いに来ている。韓国人観光客に会ったのははじめてのことである。これも「負の遺産の価値転換」で、現代的な意味において観光地としての可能性をもっと探ってもいいかなと思った。
僕があきらかにしたかったこと。秀吉が朝鮮侵略において何をしたのか。そして、朝鮮侵略の産物である耳塚が観光地として脚光を浴びるのは明治中期以降であり、昭和の時代には観光バスが押しかけるほどにまでなったこと。それは、徳川時代には当然一顧だにされていなかった秀吉が明治以降、「豊公没後300年祭」を契機として英雄になっていく過程と符合していること。つまりは、作られた英雄・秀吉と耳塚、両者の延長線上に、日韓併合があるということであった。
「近代日本の朝鮮侵略への号砲は1875年(明治8年)江華島事件である。以後、日本と朝鮮をめぐる関係は民衆にとって不幸と悲劇の連続であった。「朝鮮の権益」をめぐって争いが繰り返され、日清・日露戦争から日韓併合、そして36年の朝鮮植民地支配へと、歴史は回転する。秀吉は最も利用価値のある人物として、権力者によって持ち上げられ一躍人気者となった。そして、耳塚は秀吉のひきたて役として脚光を浴びることになる。秀吉に、嗅ぐことも聴くこともやめさせられた肉片を抱いた耳塚の哀しい時代であった」(14年前寄稿した文書から)
by mihira-ryosei
| 2006-02-05 22:06
| 京都なんでも