オギヨディオラは韓国の舟漕ぎの掛け声。1958年生まれのオヤジが趣味という数々の島々をたゆたいながら人生の黄昏に向かっていく


by mihira-ryosei
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

<   2006年 01月 ( 11 )   > この月の画像一覧

e0065380_2045620.jpg
 韓国料理の「参鶏湯」(サムゲタン)。韓国料理は焼肉や辛いものばかりじゃないということを証明するためによくひきあいに出される。韓国旅行の経験者も相当の数にのぼっていることも、この料理の知名度を高めることになっているのだろう。
 参鶏湯の「参」は人参のことだが、たんなる人参ではなく高麗人参、「鶏」はもちろんニワトリ、したがって高麗人参とニワトリのスープということになる。生後40日ほどの鶏のお腹に、高麗人参、ナツメ、もち米、ニンニクなどをつめてグツグツと煮込んだものである。夏バテ克服など滋養強壮料理として頼りにされている。韓国では普通の専門店で8000ウォンほど、ノムヒョン大統領が好きなソウルの「土俗村」あたりの高級店でも一万W前後、つまり1000円前後のものである。ところが日本の韓国料理屋だと2000円は下らない。
 
e0065380_20455510.jpg
 今回は「簡単参鶏湯」、疲れたかなというときによくつくる。あっけないほど簡単にできてしまう。高麗人参は料理用の生のものは日本では手に入らないし、仮に持ち帰っても(だめだとおもうが)保存が利かない。そこで韓国に行ったときに漢方用の高麗人参を買っておく。一番安いものを探す。年末に買ってきたのは、80ドル、30個入りである。一個あたり300円ぐらい。鶏はお腹に詰め込むのはめんどうなので、骨付きモモ肉でよい。これらに、ナツメ(これも韓国で買っておいて冷凍庫で保存する)、ニンニク、生姜、ネギなどを鍋にぶち込んで一時間ほど煮込む。松の実を入れてもいい。これだけである。食べるときに塩で味をととのえ、刻みネギをふりかけてできあがり。ご飯を入れたり、麺を入れたりしてもいける。高麗人参の香り、鶏のコク、抜群の相性である。
 たとえ自分が韓国に行かなくても、今はまわりの誰かは韓国にいくことが多いだろう。そのときに忘れずに、「免税店で高麗人参の一番安いもの、スーパーでナツメ、松の実買ってきて」と頼めばよい。
<料理の写真に写っている高麗人参は撮影のためにとりだしたもの、普通は鍋にはいったままである>
by mihira-ryosei | 2006-01-29 20:49 | キッチン
 e0065380_1542478.jpg
 高石ともやをリーダーとするザ・ナターシャー・セブンというグループを知ったのは、KBSの「日本列島ズバリリクエスト」(ズバリク)という深夜ラジオ番組である。1974年4月、僕が高校入学とともに始まった番組である。「ズバリク」での、ギター講座を毎回録音し、繰り返し練習した。僕がギターをはじめたのは小学校4年、クラシックギター教室に通っていたが、それはわずか数ヶ月。その後豊中第九中学に転校してから、解散したばかりのビートルズに夢中になった。その影響から、お年玉で心斎橋の楽器屋で赤いエレキギターを買った。フォークギターはいつ買ったのか記憶がないが、スバリクが僕のギター技術を向上させたことは確かである。
 中学から高校にかけて、洋楽は、ディープパープル、ピンクフロイド、レッドツェッペリンなどのハードロック、あるいはカーペンターズが全盛になっていた。邦楽は、グループサンズが去り反戦フォークが消え、吉田拓郎、泉谷しげるなどのフォーライフ派井上陽水、チューリップ、かぐや姫などが台頭していた。こんな時期に、ザ・ナターシャー・セブンという京都を基盤とするローカルなグループに惹かれたのはどうしてだろう。福井県の名田庄村を根城に、アメリカの古いフォークソング、ブルーグラス、日本の民謡などにとりくむ穏健で健全な、今風にいえば「スローライフ」な音楽に。もっと記憶をたどると、これは定かではないが、「ズバリク」は僕の小学校からやっており、当時同居していた叔母にすすめられて聞いていた気がする。DJは諸口あきらだった。だからカントリー、ブルーグラスの土壌は僕の中にできていたのかも知れない。いつの夏だったか忘れたが、宇治川であったカントリーの野外コンサートにも行っている。
 とにかく、ビートルズを卒業できず、ハードロックになじめず、ニューフォークにはやや天邪鬼だった、僕がカントリーとフォークを融合させたようなザ・ナターシャー・セブンにのめりこんでいく。
 このグループには、高石ともやを中心とするある種文化的教養の広がりとでもいうものが感じられた。毎年祇園祭のときに開催されていた「宵々山コンサート」に迎えていたゲストの高質さと多様さがそのあらわれであろう。多くが永六輔人脈であるともいえるが。
  
e0065380_155732.jpg
 さて、この本。僕の宝物中の宝物である。1976年に自費出版されている。よく覚えていないが、申し込むなり並ぶなりして、がんばって手に入れたと思う。今でもぼろぼろになったページを繰り、ギターをとりだし、107曲のうちから何曲かを選んで歌う。ぼくが持っている歌集は、この本と、「岡林信康のすべて」キム・ミンギのもの、三冊だけである。
 何年か前から、「宵々山コンサート」が復活したようだ。今年あたり行ってみようかな。

補足 
 ザ・ナターシャー・セブンは結局解散することになる。異才・木田たかすけは、不慮の事故で死亡。天才・城田じゅんじは、昨年殺人を犯し服役中である。残された高石ともや、坂庭しょうごのこれからの活躍にも注目しよう。そしてあえていえば、遠い将来の城田じゅんじの復活も。

 
by mihira-ryosei | 2006-01-28 15:06 | 映画・音楽
 e0065380_224165.jpg
 この本は、現在44歳の著者が1994年度に書いた修士論文であり翌年出版された。この本文だけで400ページを超える大著が、驚くことになんと16刷(2003年)である。数年間読みきれなかったが、年末から年始にかけてついに読了した。

 「こんにちでは忘れられがちなことだが、一八九五年に台湾を、一九一〇年に朝鮮を併合していらい、総人口の三割におよぶ非日系人が臣民としてこの帝国に包合されていた。戦時中の「進め一億火の玉」という名高いスローガンにうたわれた「一億」とは、朝鮮や台湾を含めた帝国の総人口であり、当時のいわゆる内地人口は七千万ほどにすぎない。・・・国定教科書においても、大和民族以外の人びとが帝国人口の三割を占めていることは明記されていた。」(写真下は台湾人、アイヌなどをとりあげた国定教科書)

e0065380_225751.jpg
なのに「日本人は、いったいいつから、自分たちを均質な民族として描きだしたのだろうか」と問いかけ、「民族論というかたちをとってあらわれ、「日本人」と自自称する人びとのアイデンティティ意識の系譜」に迫ろうとするのである。

 大日本帝国における日本民族論は、明治から昭和にかけて、一貫して混合民族論と単一民族論を軸としたものであるとされ、その対立は、たとえば天皇の情愛と海外領土の同化か権力関係と混血忌避か、皇民化(混血)と優生学(反混血)かなどにあらわされていることが明らかになる。そして、混合民族と他民族国家説にもとづくアイヌ救済、部落差別解消をとなえる良心的見解が、被差別者を文明の名の下に同化させ、戦場に動員することで、大日本帝国の対外進出能力を「証明」し、やがては対外侵略の論理を完成させるという皮肉な結果を生み出す。日鮮同祖論や創始改名もその脈絡においてとらえることも可能である。
 このような状況において、著者は、「柳田(国男)は、大日本帝国のマイノリティである朝鮮やアイヌ、そして山人に対して自覚的でありながら、あえて彼らへの関心を切りすてた。以後の彼は、欧米の脅威にさらされる島国日本の常民を、世界におけるマイノリティとして描き、日本独特の土着文化の防衛と統一を志向し」、「和辻(哲郎)の論理は、日本文化の複合性を風土の複合性から説明することにより、混合民族論を捨てることが可能になった。」として、「(和辻の)単一かつ複合的な文化をもつ、平和な自然的共同体という日本像が、混合民族論の制約をふりきって前面に出る準備がととのえられた」、つまり戦後の単一民族神話誕生への序曲となったと主張する。

 日本における民族論において、日本の家族制度の影響が指摘されており興味深い。
日本の家族制度では、原則的にはどんな者でも養子になれるが、一方でその者は、みずからの出自を忘れ名を変え、新しく入ってきたイエの一員として家風に染まりきることが要求されるのだ
 このことは父権を原則とし、生涯苗字を変えない中国、韓国の家族制度とは対照的である。著者はこの視点から、単一民族神話に迫る。戦前の混合民族論とてしょせん、対外膨張した帝国の理論化に利用され、同化の論理にも日本家族論をみることができる。戦後の単一民族論も、本質は純血主義ではなく、「同化したくない(家族になろうとしない)他者には出会いたくない」という認識ではないのかと喝破する。

過去の神話化の本質は、他者とむかいあって対応をはかる煩わしさと怖れから逃避し、現在にあてはめたい自分の手持ちの類型を歴史として投影することなのだ。・・・わずかな接触の衝撃にすら耐えきれずに神話の形成に逃避し、一つの物語で世界を覆いつくそうとすることは、相手を無化しようとする抑圧である。この逃避こそあらゆる神話の起源にほかならない。」

 なおこの著者は、1997年に提出した博士論文も、翌年本文665ページの本として出版され、これも9刷である。『<日本人の境界>沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで』 
e0065380_2253866.jpg
 僕は、他に著者の本、『民主と愛国』、『インド日記』を読んでいる。たくさん読み、た~くさん考え、た~くさん、た~くさん書く研究者、しかも無意味なことはひとつもないのである。小熊英二とは、まさにお化けだ。
by mihira-ryosei | 2006-01-26 21:59 |

静岡 浜松・興津行


e0065380_2249344.jpg 土曜の夜仕事を終え宿泊したホテルから、昼前、歩いて浜松城へ。天守閣石垣の下で碑文を見つけた。1959年、北朝鮮への帰国事業を記念したものだ。在浜松朝鮮公民とある。なんとなくもの悲しい。どうして浜松城なのか。朝鮮侵略に一兵もださず、朝鮮通信使を受け入れた徳川家康を意識してのものなのか。よくわらない。
 浜松駅から新幹線で静岡駅に。JR在来線に乗り換え興津(おきつ)に到着。江戸期は東海道の宿場町であり、明治から昭和、帝国憲法下時代の政治家の別荘地である。



e0065380_22503947.jpg
 清見寺。朝鮮通信使の詩文が残っているというので訪ねた。お寺、一筋縄では行かない。実にたくさんの事跡に満ちている。梶原景時、足利尊氏、徳川家康、榎本武揚、明治天皇、高山樗牛、与謝野晶子、山下清・・・。ところが何故か正門と本堂がJR東海道線によって分断されている。「お寺の前庭のところを汽車の東海道線が走っているのはどういうわけかな。お寺より汽車の方が大事なのか。お寺の人はそんしたな」境内で見た山下清の日記の掲示どおりである。


e0065380_22532681.jpg
 坐漁荘。最後の元老西園寺公望が70歳から92歳で没するまで暮らしていた。西園寺に相談におしかける政治家たちの姿は「興津詣」と呼ばれた。実物はすでに明治村に移築されている。最近、忠実に再現建築された。入場無料、案内ボランティアの名調子も楽しかった。
 水口屋ギャラリー。今はもう幕を下ろしたが、老舗の旅館。皇族、政治家、文人が宿泊している。見ごたえのある展示だった。
 街道沿いの魚屋、魚格で、いるかの味噌煮に目を奪われる。さばの燻製を試食してみたら旨かったので買い求める。一匹分300円。興津で、必然性は無いわなと思いつつ、トンカツ屋、かつ平に入る。なかなかやる!
 
e0065380_22545618.jpg
     これは興津名物 鯵の押し寿司
e0065380_22553283.jpg
by mihira-ryosei | 2006-01-22 23:04 | 旅行

別府 ふぐ松

e0065380_034595.jpg


 飛込みにもかかわらず、お店のみなさんは実に親切である。気持ちのよい店である。
 ここのきもあえは皮や刺身がでしゃばらず、きもの風味を大切にした味付けだ。刺身にもきもをたっぷりからませて食する。ムフフ。
e0065380_0391879.jpg

 ひれ酒は、実に濃厚である。香ばしい、うまみもたっぷり。そして豊満な白子焼き。特別に大きなものをひきあてたようだ。さらにふぐちり。フィニッシュが雑炊であったことはもういうまでもないことである。なお、雑炊の写真を掲載しないのは、あまり食欲を刺激しすぎないようにするためである。


e0065380_0394873.jpg


 ところで、ふぐを食べた後の幸福感、満足感というものは、他のどんな美食にもないものだと思うがどうだろう。ふぐを福(ふく)と表現することがあるのもうなずける。

 古くは江戸時代、禁断のグルメであった。長州藩ではふぐを食べて死んだ場合は「お家断絶」とされた。本来主君にささげるべき命をふぐごときで落とすとは何事かということらしい。「お家断絶」覚悟でふぐをたべた人もいたのだろう。まさに壮絶な光景といえよう。
 

e0065380_0401771.jpg

  
 

e0065380_04125100.jpg
by mihira-ryosei | 2006-01-18 00:55 | うまいもの 韓国京都以外

四条大橋の黄昏

e0065380_230665.jpg


 1月7日の土曜日午後6時頃、河原町から祇園に向かう途中、四条大橋の上で撮った写真である。赤みがかった紫の空を美しいと思った。

 この日は、祇園花見小路の「原了郭」で黒七味をお歳暮返しにおくり、再び河原町にもどり母も通っていた喫茶店「築地」でコーヒーを呑み、蛸薬師堺町の「豆菜」で新年会。2次会は新京極の大分料理「吉四六」、3次会はたいがい酔っ払って紫竹のバー「アニーホール」にいったようだ。もう先週の土曜日の話なのだが、黄昏が美しかったので。
by mihira-ryosei | 2006-01-11 23:12 | 京都なんでも
e0065380_20183877.jpg
 もし自分の大好きなおじいちゃんが、恐るべき事件に関係していたら・・・。この本はそういう筆者が肉親の疑惑を究明するというものである。ただの事件ではない。下山事件である。下山事件とは、昭和24年7月5日、国鉄の下山総裁が行方不明になり、線路で轢断死体となって発見された謎の事件である。松本清張はじめたくさんの人たちがこの史上最大のミステリーに挑んできた。たんなる殺人事件ではない。敗戦直後の日本の暗部を背景にしている。巨大な贈収賄事件、国鉄の民営化、アメリカのアジア戦略などの黒い霧に総理大臣はじめの政権中枢、右翼勢力、労働組合など左翼勢力、アメリカ占領軍、朝鮮人、ソ連などさまざまな地下水脈が絡んでいる。しかも、大陸浪人、特務機関、731部隊、満州鉄道など日本の「アジアを蹂躙した戦前」を生きてきた人の影も交錯している。
下山事件というフィルターを通してみれば、吉田茂も佐藤栄作も、ダンディぶりがもてはやされている白州次郎も、まったく違う表情を見せてくれる。
 筆者は肉親の疑惑に勇気をふるってメスをいれ、膨大すぎる証言に分け入って、真実を明らかにしようとする。

 靖国神社をはじめ歴史認識問題をめぐり、中国、韓国との外交関係は最悪の状態である。「もう60年も前のことではないか」、「いつまであやまり続ければいいのか」、そんな苛立ちが、政治家のみならず市民レベルでも生まれている。しかし、自分たちは本当に戦前のこと、現在の日本という国の骨格をつくった敗戦直後のことをどれだけ知っているのだろうか。うんちくとかトリビアとかじゃなくて、本当に知らなければならないこと、直視しなければならないことをどれだけ知っているのか。そんなことを思い知らされる本である。
 つまりこの本は筆者の祖父の話ではない、自分たちの国の生い立ちの話なのだ。
 
by mihira-ryosei | 2006-01-09 20:22 |
e0065380_15462557.jpg

 さすがに深酒はつらい。集合時間に30分遅れてしまう。それにしてもT君の酒臭いこと。雪のちらつくなか、ソウル中心部の建造物、旧京城府庁のソウル支庁、旧朝鮮銀行の韓国銀行などを見てまわる。竜山(ヨンサン)地域へ。現在は米軍基地で有名だが、そもそも米軍は旧日本軍の施設にそっくり入っただけ。「昭和」は米軍基地にその姿を豊富にとどめているのかもしれない。ありふれた街角を歩き日本の家探し。(写真左)僕をはじめ何人かは、コンビニに飛び込む。空腹を覚えた。カップ辛ラーメンを食べる。みんなが待っているので焦って、まだ芯の硬い麺をかき込む。大阪の下町にいるような錯覚を覚える。
 
e0065380_1547422.jpg

 今回の最後の訪問地、港町、仁川(インチョン)に向かう。仁川は19世紀の末から、日本と清の共同租界があったことで知られている。日清戦争までは争いが耐えなかったようである。韓国におけるチャイニーズは過去には日本に苛められ、解放後は、朴政権に徹底的に抑え込まれていた。そのために最近まで世界でも中華街のない珍しい国であったのだ。現在はソウルにも仁川にも中華街が再建されている。ちなみに韓国における最もメジャーな中華料理は、黒味噌麺、ジャージャー麺だがこれは仁川を元祖としている。さらに余談だが、韓国では、2月14日のバレンタインデー、3月14日のホワイトデーに続いて、4月14日にブラックデーがある。チョコレートを貰えなかった男性とチョコレートをあげる相手がいなかった女性が、ジャージャー麺を食べる日なのだ。本当なのだ。写真の灯篭は、日清の境界をあらわしており、左は清側、右は日本側で、灯篭のデザインも異なっている。日本側地域はかつての銀行などがいくつか整備保存されているが、全体としてデザインされているわけではない。仁川は共同租界という資源を持つ、大きな潜在力を感じさせる町である。
 
e0065380_1549186.jpg

      清の租界跡

e0065380_15503439.jpg

   旧日本人居留地域

 話はさかのぼるが、群山でのこと。今回こそは映画「八月のクリスマス」の撮影地を探すことを密かな目的にしていた。群山では「昭和」を真面目に探しているメンバーに、「八月のクリスマス、八月のクリスマス・・・」とうるさくつきまとい、「なんのために来たのかわからない」などと理不尽なことを言い放ち、多くの時間を消費させてしまった。結局写真館は、取り壊されてガレージになっていたという結末になるのだが、帰国後、T君からメールが来た。「インターネットであるサイトを見つけた。写真館はもともとセットで撮影後直ちに壊されてガレージになっているとあり、これをチェックしておけば現地に行ってばたばたしなくてすんだのに・・・やっぱりおまえは粗忽者だ・・」というものであった。確かにそのとおりである。ご迷惑をおかけしました。
 でも「八月のクリスマス」を見てくれれば僕の取り乱しようは理解してもらえると思うのだけれど。
http://home10.highway.ne.jp/badtz/8×1.html
by mihira-ryosei | 2006-01-07 15:54 | 韓国なんでも
 
e0065380_21353731.jpg
 
 群山を出てから4時間弱、大都市ソウルに到着。今朝まで大雪原を見ていたと思うと不思議な気がする。ホテルにチェックイン後、夕食へ。メニューは、コプチャンクイ。小腸の焼肉である。まさに僕のとっておきの店である。ソウルでもコプチャンチョンゴルというホルモン鍋は数多くあれど、コプチャンクイの店はさほど多くない。江南のキョデ(教大、つまり教育大)あたりが有名だが、僕のオススメの店にはかなわない。
 ありふれたというよりも、殺風景なといった方が似合う街角のその一点だけに、ソウル中のエネルギーが充満しているようなところがある。その店、「ファンソ コプチャン」(黄牛小腸)は地下鉄2号線ハプチョン(合井)駅近くにある。店が満員だったので、厳寒の外で20分ほど並んで入る。満員、煙、匂い、そしてなによりみんな大声で話すので騒々しいことこのうえない。もう何十回と来ている店だが、ワクワクする。メニューはいろいろあるが、僕はコプチャン一筋である。
 四角い鍋に真っ白い腸がつながったまま並べられてでてきた。切り口から見える中は黄色かったり妙に濁っていたりいろいろあるが、深く考えない。ザクッと切ったジャガイモ、玉ねぎをのせて、調味料をふりかけ、焼く、それだけである。ときおりくるくる回しながら火を通し、硬くなってきたらハサミを入れる。キムチは当然ながら、生レバー、生センマイはお変わり自由である。お姉さんの許可がでたらぱくつくのみである。
 
e0065380_21382837.jpg
e0065380_2139224.jpg






 人間が嬉々として獣に堕ちていくようだ。みんなやたらギラギラして、テンションも高い。この店の声が大きいのも理解できる。寿司屋の騒がしさとは違うのだ。野生の叫びなのだぁ~!

 食べ終えるというより、気がつくと無くなっている。すかさずコプチャンのエキスがこびり付いた鍋で仕上げのポックンパップ(焼き飯)を注文する。あたりまえのことだが、これがまたまた旨いのである。おこげまでスプーンでごりごりこそげとって飽きることがない。
 
e0065380_21422811.jpg

 この店、チェーン展開はしないそうである。立派ではないか。さらに最新情報を。壁にとりつけてあった赤と黄色の派手な看板を見ると、「再開発のために仕方なく店を移転します」と、この駅から二駅ほど離れたマンウォン駅2番出口前で3月末から営業とのことである。ハプチョンではないのでお間違えなく。
 
 二次会は地下鉄で。新村駅下車、延世大学近くの民俗酒場でドンドンジュを飲む。これまた凄い喧騒。三次会は?? 
 どーんと来い!

e0065380_21441598.jpg
 
e0065380_21445112.jpg
by mihira-ryosei | 2006-01-04 21:36 | 韓国なんでも
 全州を出て、群山(クンサン)に向かう。いい町だった。今度ゆっくり来よう。ビビンパと並ぶもうひとつの名物、コンナムルクッパ(豆もやし汁飯)食べてないから。
 群山近郊の農村地帯に立ち寄る。植民地時代、日本人が大地主となり、日本からもたくさんの農民を迎えた。
e0065380_2140305.jpg
e0065380_21472329.jpg



その村々はかつて、高知村、熊本村、大分村などと出身地を冠した名前がつけられた。我々は旧奈良村に入った。そこに昭和の日本の農村があった。キムチの甕だけが韓国であった。地域によっては現在の居住する韓国人と昔居住した日本人との交流もあるようだ。ただ日本人の農地を優遇した関係からか周辺の農村では対日感情はあまりよくないとのこと。近くの小学校に行く。英雄・李舜臣(イスンシン)将軍のちゃちな像があり、その背後に校長の碑文があった。校舎を建てかえたときのものである。「ここは日本人たちが海を埋めてつくった農村跡で、彼らも学んだ教室が60年経ったので壊して、我々すべて大韓の主人として誇りをもって新しく建てた」みたいなことが書いてある。やっぱりクールでんな。

e0065380_22111414.jpg
 古来よりマーケットであった江景と違って、群山は日本人がつくった町である。碁盤の目のように区画が整然としており、地名も植民地時代をしのぶことのできるものが多い。雪景色だったので、札幌の町並みを連想した。江景の日本家屋が塩辛屋として装いを変えてしまっていたり、廃屋が多かったのと比較して、月明洞(ウォルミョンドン)を中心にまだまだたくさんの日本家屋が「生きて」残っている。今回は前回の住宅や税関跡、銀行跡意外にも、遊郭跡も見ることができた。(写真上から三枚目)近くの市場のおばさんたちが一斉に「なんで写真撮るんだよ~」と叫んでいた。このような反応はここだけだった。

e0065380_22125063.jpg
「ここまでくればもはやアートだ」O君評 写真左

e0065380_2213536.jpg



 昼食は海の側で、「メウンタン」(直訳すれば辛い湯、魚を入れる)を食べる。醗酵したエイ、珍味のホンオを食べたかったが、エイの刺身しかなかった。残念。
e0065380_21393281.jpg
 一路ソウルをめざす。密かに楽しみにしていた夕食、最高のグルメが待っている。
by mihira-ryosei | 2006-01-03 21:45 | 韓国なんでも