オギヨディオラは韓国の舟漕ぎの掛け声。1958年生まれのオヤジが趣味という数々の島々をたゆたいながら人生の黄昏に向かっていく


by mihira-ryosei
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dog ear 14 靖国問題  高橋哲哉

 首相参拝、A級戦犯合祀・分祀問題、アジア諸国との関係・・・靖国神社を果たしてこういう文脈だけで捉えてしまっていいものか。靖国と天皇制、日本人そしてアジアとの関係はもっと奥深く考えることが必要であろう。以下引用しているテーマの他にも、植民地統治のために現地の「番族」と戦った日本兵も、かたや戦争にかりだした植民地出身の軍人も合祀されていることなども重要である。どうやら「首相が参拝させしなければよい」、「A級戦犯を分祀しさえすればよい」というわけではなさそうだ。以下にdog earを。

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 日中戦争から太平洋戦争に至る時期、靖国神社では数千から万の単位で大量の戦死者を合祀する臨時大会が繰り返された。その際、北は樺太から西は満州、南は沖縄・台湾から遺族が選ばれて国費で東京に招かれ、戦死者を「神」として合祀する臨時大祭に列席した。それらの遺族が両側を埋め尽くす靖国の参道を霊璽簿(戦死者の名簿)を載せた御羽車が神官に担がれて本殿に移動し、祭主としての天皇が同じ道を通って参拝した。・・・「老婆」たちが口々に語る「ありがたい」「もったいない」という心情は、単なる建前とは思えないリアリティをたたえている。・・・「靖国さまにお詣りできて、お天子様を拝ましてもろうて。自分はもう、何も思い残すことはありません。今日が日に死んでも満足ですね、笑って死ねます」。・・・天皇の神社・靖国がその絶頂期に果たした精神的機能、すなわち、単に男たちを「護国の英霊」たるべき動機づけるだけでなく、「靖国の妻」、「靖国の母」、「靖国の遺児」など女性や子供たちを含めた、「国民」の生と死の意味そのものを吸収しつくす機能が典型的に表現されている。

 ・・・可能な限りの栄光を戦死者とその遺族に与えて、「戦場に斃るるの幸福なるを感ぜしめざる可らず」、すなわち、戦死することが幸福であると感じさせるようにしなければならない、というのだ。ここには国家が戦死者に対して、「国のために死んだ名誉の死者」としてなぜ最大の栄誉を与えるのかについての、最も重要と思われる説明が見だされる。家族を失って悲嘆の涙にくれる戦死者を放置していたのでは、次の戦争で国家のために命を捨てても戦う兵士の精神を調達することはできない。戦死者とその遺族に最大の国家的栄誉を与えることによってこそ、自ら国ための「名誉の戦死」を遂げようとする兵士たちを動員することができるのだ。

 赤澤史郎は・・・「戦死者は天皇と国家のために喜んで死んだ筈だというタテマエが、あらゆる戦死者の唯一の意味として押しつけられ、必ずしも喜んで死んだというばかりは言えないとか、遺族は靖国の英霊となったことを喜んでいるとは限らないとかいう解釈は、もっての外の「不忠不義」として斬り捨てられてしまう」と述べている。・・・靖国の祭り(祀り)を「悲しみ」の祭り(祀り)と考えることは困難である。それは悲しみを抑圧して戦死を顕彰せずにはいられない「国家の祭祀」なのである。
 
 小泉首相の反応は・・・驚くほど合理性を欠いているx。「日本人の国民感情として、亡くなるとすべて仏様になる。A級戦犯はすでに死刑という現世で刑罰を受けている・・・死者に対してそれほど選別をしなければならないのか」。小泉首相の発言は、一国の指導者としてあまりに杜撰である。神社が問題になっているのに、「カミ」ではなく「ホトケサマ」と言い、靖国に違和感を持つ日本人キリスト者などの感情を無視して、「日本人の国民感情」を語る。靖国神社に合祀されたA級戦犯のうち、死刑に処せられたのは東条英機首相ら七名のみで、残りの七名は病死・獄死者であるのに、A級戦犯すべてが死刑になったかのように語っている。

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 A級戦犯分祀論は靖国問題における歴史認識を深化させるものではなく、むしろ反対にその深化を妨げるものであるということである。靖国問題をA級戦犯分祀論として語ることは、一見すると戦争責任問題を重視しているように見えるけれども、実際はまったく逆で、戦争責任問題を(A級戦犯に)矮小化し、そしてそれだけでなく、より本質的な歴史認識の問題も見えなくしてしまう効果をもつ。

 「天皇の意志により戦死者の合祀は行われたのであり、遺族の意志にかかわりなく行われたのである」という池田権宮司の発言によくよく注意しなければならない。もしそうであるとするなら、無視されているのは合祀廃絶を求める遺族の意志・感情だけではない。戦死した家族の合祀を求める遺族の意志・感情も、いわばたまたま「天皇の意志」に合致しているにすぎないのである。本質的には、無視されていることに変わりはないのだ。
つまり、靖国神社は本質的に遺族の意志・感情を無視する施設である。

 文化としての「死者との共生感」を言うなら、なぜ靖国は日本の戦死者の中でも軍人軍属だけを祀り、民間人死者を祀らないのか。たとえば、沖縄の摩文仁の丘に立ち、海を見つめれば、沖縄戦で戦死した人々に思いを馳せることもできよう。しかし、靖国はその夥しい死者のなかから、日本軍の軍人軍属のみを選び出して合祀し、軍人軍属より多数にのぼったと言われる民間人の死者には目もくれない。



『靖国問題』 高橋哲哉 (ちくま新書)
by mihira-ryosei | 2006-08-12 00:27 |