オギヨディオラは韓国の舟漕ぎの掛け声。1958年生まれのオヤジが趣味という数々の島々をたゆたいながら人生の黄昏に向かっていく


by mihira-ryosei
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dog ear 15 幕末・維新  井上勝生 

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この本の締めくくりは、こうである。
 「幕末日本の大方が攘夷で沸きたっており、その中心に天皇・朝廷がいたという神国思想や大国主義で色揚げされた物語こそ、本文でのべたように、「無稽の謬説」の一つであった。その物語は、近代日本がつくり出した、新しい天皇制近代国家の創生「神話」にほかならなかった。」
 
 歴史の通説をひっくり返すという行為は、愉快なものだが、その動機によっては危険な意図が見え隠れすることがある。「美しい国・日本」などということばも、憲法や教育基本法の昨今のありようを考えると、日本人の歴史認識に巧妙に働きかけ、盲目的な復古主義を喚起する可能性なしとしない。ところで、本書がひっくり返した通説は、きわめて重大なもので、近代の日本人の歴史認識を形成している土台をつくりかえようとする作業なのである。
 江戸幕府の圧制にあえぐ庶民、世界に著しく遅れた後進国家、迫る西欧諸国の侵略、沸き立つ攘夷の声、幕府の動揺と無能、雄藩の台頭、朝廷を中心とする近代国家の構想、文明開化・・・これらのことすべてに再検討を求めているのが、本書である。
 僕も大変な刺激をうけた。この言説を検討すると、司馬遼太郎の幕末・維新、明治観も、かなり書き換えなければならないのではないか。
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 江戸幕府下においては、成熟した社会が形成され、庶民の提言も受け入れる柔軟な統治もおこなわれていた。差し迫る西欧諸国の危機など存在せず、攘夷を叫ぶ孝明天皇(写真)をはじめとする朝廷こそ開明派の大名からも無謀な冒険主義との批判を受けていた。このような状況でも、むしろ幕府外交は高い水準を持っていた。幕府の近代国家構想こそがよほどリベラルであった。他方、文明開化などというが、明治政府の圧制は江戸時代の比ではない、苛斂誅求ともいうべきものであった。そしてこの幕末・維新の歩みが、日清日露戦争から、第一次世界大戦、第二世界大戦を経て、日本の無残な敗北までを必然としたのである。
 
 「プチャーチンの秘書として同席した文豪ゴンチャロフの『日本渡航記』によれば、闊達、陽気な川路(外交交渉にあたった幕臣)は、立派な贈り物を例にあげて、「日本人は、なにもかも渡して素っ裸になってしまうでしょう」とロシア側全員を笑わせ、自分も笑いながら、交渉を打ち切って、「貴族らしく悠然と立ち上がった」。
 印象深い場面であるが、川路の応答は、たしかな道理を述べているのである。貿易が国を富ますという説に、川路は同意しなかった。一方、値安のものを交換するのが利益だという説には、「道理」と賛意をあらわす。後者はプチャーチンの言うとおりである。だが、前者は、国と国との経済力の格差が大きいときに不用意に貿易関係に入ると、後発国の在来産業は深刻な打撃をうけてしまう。「通商は国の痛みに」なるのである。」
 
 今の日本外交より、はるかにましだ。

 「オールコック(初代イギリス公使)は、下関四国連合艦隊砲撃事件をリードした対日強硬派であり、日本を「半ば未開の東洋の一国民」と見ていた。だが、時に違う観察が紛れ込む。1860(万延元)年、富士山に登頂した帰り道、伊豆の韮山あたりの「小さな居心地のよさそうな村落や家々」を通りかかったときの彼の述懐である。「封建領主の圧制的な支配や全労働者階級が苦労し、呻吟させられている抑圧について」、「かねてから多くのことを聞いて」いる。だが、「これらのよく耕作された谷間」でひじょうなゆたかさのなかで家庭を営んでいる幸福で満ち足りた暮らし向きのよさそうな住民」を眼にすると。これが「圧制に苦しみ、過酷税金を取り立てられて窮乏している土地」だとは「とても信じがたい」と。」

 「農民の暴力的な蜂起というという百姓一揆像も、事実と違っていることが分かってきた。・・・「あえて人命をそこなう得物はもたず」、非暴力的蜂起という点が江戸日本に普遍的な原則であった。事実、江戸時代、3200件ほどの一揆のなかで、竹槍による殺害の事例は、わずか2件だけであった。・・・従来、駕籠訴は重罪、本人は獄門といわれてきた。だが、最近の研究によれば、駕籠訴は、要求に道理があれば、事実上、認められていたのである。・・・江戸幕府の支配の強さは、訴訟を禁止し、百姓を力で圧倒したことにあるのではなかった。訴願を受け付け、献策を容れる「柔軟性のある支配」に、その持続の秘密があった。」

 「幕末後半期・・・日本に最大の影響力をもつイギリス外交は、中立、不介入の路線を確定し ており、それを明確に表明していた。イギリスの判断の基礎には、列強の勢力均衡という日本の地勢、日本の政治統合の高さ、イギリス海軍の能力の限度、貿易のおおむね順調な発展、大名の攘夷運動の終息、西南雄藩の開明派の台頭などがあり、中立、不介入の方針は確立されていた。」

 「日本に国際的な重大な軍事的危機が迫っていたわけではないのである。対外的危機からの脱出がなにをおいても必要だったという国際関係を前提に急進的な政治革新を必然的なものと描き出す見解が、従来有力なのだが、冷静に再考されるべきである。」

 「西周の幕府国家構想では、朝廷の公家は山城国(京都府南部)から「外出」できず、外出しても「平人」と均しくあつかわれるなど、朝廷の特権が大幅に制限されていた。維新政府の権威主義的な天皇制国家より、リベラルな国家をめざしていたのである。」

 「社会が必要とする勤勉や、規律や衛生は、実は、江戸民衆社会に、欧米のそれとは、形態が違っていたかもしれないが、成熟をとげた形で存在したのである。役所や懲役場、はては病院までも、明治初期のうちこわしで、「焼き打ち」の攻撃対象になったことの意味が、ここにある。とりわけ激しい反発をよんだのは血税と的確に批判された徴兵であった。兵役といわれても、実際に当時の日本に欧米の侵略の危機があっただろうか。・・・一年半も、政府の要人がこぞって欧米を回覧する当時、国際的な戦争が迫る危機は、情勢としてまったくなかったのである。・・・・無理やりの欧米化、そして万国対峙という大国主義、これが、討幕派という少数派が、新政府の要人になるときから、政治の基本として身につけていたものだった。

  『幕末・維新 シリーズ日本近現代史①』 井上勝生 (岩波新書)
 
by mihira-ryosei | 2007-01-20 10:38 |